2020/11/13 10:00

大学の3年生時に大学の派遣留学という制度でブラジルのリオデジャネイロに留学しました。国からの奨学金が出たこともあって、『自分は国費留学生』というプレッシャーもかなり感じていました。また、ポルトガル語ができた状態で外国語大学に入学したので、周りからは「山田のせいで留学の枠が今年は一つ少ない」と揶揄されることも有り、「何が何でもこの留学で何か成果を出さなければ」という気持ちでいっぱいでした。

留学中お世話になった2軒目のステイ先は、昼は大学の職員、夜はクラブDJをするマルセロと、ファベーラ出身でテレアポをして働いているシモネのカップルの家でした。

ファベーラというのはブラジル各地にある、低所得者層コミュニティのことで、リオデジャネイロでは街に反り立つ山々の斜面に広がっています。各コミュニティにはギャングたちが居て、麻薬取引の温床になっていることから、社会問題としても扱われる地帯のことを指します。

シモネはリオのファベーラの中でも最も古いとされるモッホ・ダ・プロヴィデンスィアというコミュニティの出身でした。

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その家にお世話になっていた時は僕は既に自分の人生をブラジルに捧げたいと思うようになっていました。しかし、それをどのように実現したら良いのかわからず悩んでいました。

そんな時にシモネが「うちに遊びに来る?」と誘ってくれました。ファベーラに入るというのは、中に友達が居ない限り、現地のブラジル人でも恐れる行為で、留学生の僕には願ってもないチャンスでした。

というのも、ステイ先1軒目の家庭は裕福な家庭で、危険なところには行かせてくれないホストファミリーでした。カーニバルの時期に「サンバを見に行きたい」と言うと、「あんな危険な貧乏人の馬鹿騒ぎに行かせるわけには行かない」と言われ行くことができませんでした。

意外かもしれませんが、ブラジルの中流階級以上の多くは、カーニバル時期にはサンバを楽しむよりも旅行に行くのが定番の過ごし方です。カーニバルはファベーラに住んでいるような低所得者が楽しむことが多く、実際に多くのファベーラはサンバチームを擁しています。

「ブラジルの全てを余すとこ無く見てくる」と決めた留学だったのに、ブラジルを代表するサンバを見られなかった。しかも滞在先はリオなのに。「一体僕はブラジルに何をしに来たのか」と悶々とする日々を過ごしていたのです。そんな時にファベーラへのお誘いが来て、僕は舞い上がる思いでした。

シモネとは家から一緒にバスに乗って行きました。家からシモネの実家の近く迄50分くらいだったと思います。ちょうど近くにはサンバカーニバルのスタジアムが有りました。カーニバルの時には来れなかったけど、今日こうしてこのスタジアムに来れたのはなにかのお導きかもしれない。そんな風に思いました。敷地内にはサンバの衣装が展示してある施設があり、二人で見学しました。

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生まれて初めてファベーラに踏み入る僕に対してシモネはいくつか注意をしました。キョロキョロしない。中の人をジロジロ見ない。走らない。写真撮影はしてはいけない。それらを守るように言われました。これらは、ギャングたちを触発しないためのルールでした。地元の人と一緒でもここまでしなければならないのかと、緊張しつつもファベーラの入り口から入っていきました。

しばらく坂を登っていくとレンガ造りの小さな家が有りました。それがシモネの家でした。中には小学生の子供がいました。僕にとっては初めてのファベーラの子供でしたが、彼にとって僕は海外の、しかも日本から来た外国人です。目をキラキラさせて僕にいろいろな質問をしてきました。彼はブラジルの伝統舞術カポエイラをやっていて、「もっと強くなりたい」と熱く語っていました。

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ブラジルは教育を十分に受けられない子供がたくさんいます。そのためにギャングのメンバーに幼い頃から徴兵され、銃器を持たされて最前線へ送り込まれます。ブラジルは少年保護の観点から、人を殺しても罰せられません。そんな子どもたちを徴用するのです。

ブラジルの子どもたちはアタマが悪いわけでは有りません。皆経験豊かで、賢い子が多いです。しかし学校へ行けない子は悪い道へと進むしかなくなってしまうのです。

僕は彼を見てピンときました。

「そうだ、いつかブラジルに学校を創ろう」

異文化と触れ合うことが大切と思っていた僕は、ブラジルに日本文化学校を設立して、学校に行けない子供に日本語や日本文化の教育を施す。そして、成績優秀者の子には日本留学をさせ、職業体験などをさせる。そして、ブラジルに帰ってきた学生をファベーラに戻す。きっと日本で見聞き、そして経験したことが、ファベーラ内で化学反応を起こし、ファベーラに大きな変革をもたらすのではないか。

そんなことを思うようになりました。具体的な方法など全くわからないし、何が必要で、何をすればよいか。全く想像もつきませんでしたが、胸が熱く熱くなりました。

留学中にやっと手に入れた、まだまだ小さな種でしたが、ブラジルと日本の架け橋となれる壮大な夢に胸と頭がはちきれそうになっていました。

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帰国後、その夢を叶えたいと思い、大学院修了後、フリーターをしながら小学校の教職免許も取りましたが、年を重ねるにつれて色々やりたいことも出てきて、この夢は一回引き出しにしまいました。

でも僕のブラジルへの思いを支える大きな背骨となった夢でした。ブラジルは触れ合った人に夢を見させる国です。

それが「未来の国、ブラジル」と呼ばれる所以かもしれません。